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本を読んでパンを焼く日々。

大好き樹木希林さん!

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かっこつけない人が、かっこいい。
自然体で人の前に立てる人は、本当に強い人だと思う。
どうしても自分のことを良く見せたい思ったり、強くあろうと頑張ってみても、肩の力がすーっと抜けた人にはかなわない。
 
私は樹木希林さんが好きだ。
 
竹のように強い芯があって、けど柳のように飄々としていて、自分の発言に責任を持っていて、誰も傷つけない。

 

SWITCH Vol.34 No.6 樹木希林といっしょ。

SWITCH Vol.34 No.6 樹木希林といっしょ。

 

 

 

最初の芸名は悠木千帆(ゆうきちほ)
 
芸能界では勇気が必要とのことからお父さんが考案したとか。
本当は勇気りんりんという言葉から悠木凛子とつけられそうになったみたいだが、私は嫌いじゃないw
 
20代から老人の役をやり、人気を博した。30代前半の1974年、『寺内貫太郎一家』の小林亜星演じる主人公貫太郎の実母役でブレイク。髪を脱色して、手の若さを隠すために指ぬき手袋をつける徹底ぶり。
 
1977年の生放送のオークションコーナーで、売るものがないとのことで自身の芸名を競売にかけた。そんな人いるのかと思いますが、これが彼女の素敵なところ。
 
芸名売却後に本名にしようとしたが、TBSの名プロデューサー久世光彦から「そんなイージーな役者は死ね」と言われる始末。このプロデューサー粋なことを言いますね。
困った彼女は辞書で文字を拾い集め、「樹や木が集まり稀な林を作る=みんなが集まり何かを生み育てる」から樹木希林にきめる。音の重なりが好きだったそうで、ちゃちゃちゃりんも候補だったそうだが、残念ながら漢字が当てはまらなかったそう。
 
私生活では2度の結婚で、旦那さんが内田裕也さんなのは有名な話。内田裕也さんとの間に一人娘の内田也哉子さん(エッセイスト)に恵まれました。しかし早い段階で別居状態になり、結婚から一年たった頃に勝手に内田裕也さんに離婚届けを出されるも認めず、裁判で勝訴。もうこの時点でぶっ飛んでいます。もうこのあたりは本人たちにしか分からないことですね。
 
2005年に乳がんの手術を受けて、2013年には全身がんを公表しました。
死に際についてインタビューで彼女はこう答えました。
 
「うちの娘なり、婿なり、その子どもたちが、私の死に際を実感として感じられる。人は死ぬと実感できれば、しっかりと生きられると思う。終了するまでに美しくなりたい、という理想はあるのですよ。存在そのものが、人が見た時にはっと息を呑むような人間になりたい。形に出てくるものではなくて、心の器量ね。」
文藝春秋1996・6月私の夢見る大往生より
 
一切なりゆき 樹木希林のことば (文春新書)
 

 

樹木希林 120の遺言 ?死ぬときぐらい好きにさせてよ (上製本)

樹木希林 120の遺言 ?死ぬときぐらい好きにさせてよ (上製本)

 

 

がんというもののおかげで心の有り様が定まったという彼女。突然死ではなく死ぬまでの準備期間があるのはありがたいと言える精神力。
 
 
最後に、彼女が生き抜いたことが良くわかる、彼女の葬儀で娘さんの也哉子さんが語った悼辞を書きます。
 
私にとって母を語るのに、父、内田裕也をなくして語れません。本来なら、このような場で語ることではないのかもしれませんが、思えば、内田家は数少ない互いへのメッセージ発信をいつも大勢の方々の承認のもとに行っていた“奇妙な家族”でした。また生前、母は恥ずかしいことこそ、人前でさらけ出すというやっかいな性分だったので、皆様が困らない程度に少しお話しさせてください。
 
私が結婚するまでの19年間、うちは母と私の2人きりの家族でした。
 
そこにまるで、象徴としてのみ君臨する父でしたが、何をするにも私たちにとって大きな存在だったことはたしかです。
 
幼かった私は不在の父の重すぎる存在に、押しつぶされそうになることもありました。
ところが困った私が、『なぜこのような関係を続けるのか』と母を問い詰めると、平然と『だってお父さんにはひとかけら、純なものがあるから』と私を黙らせるのです。
自分の親とはいえ、人それぞれの選択があると、頭ではわかりつつも、やはり私の中では、永遠にわかりようもないミステリーでした。
 
 ほんの数日前、母の書庫で探しものをしていると、小さなアルバムを見つけました。母の友人や、私が子供の頃に外国から送った手紙が丁寧にはられたページをめくると、ロンドンのホテルの色あせた便せんに目が止まりました。それは母がまだ悠木千帆と名乗っていた頃に、父から届いたエアメールです。
 
 『今度は千帆と一緒に来たいです。結婚1周年は帰ってから二人きりで。蔵王とロサンゼルスというのも、世界中にあまりない記念日です。この1年、いろいろ迷惑をかけて反省しています。
 
 裕也に経済力があれば、もっとトラブルも少なくなるでしょう。
 
 俺の夢とギャンブルで高価な代償を払わせていることはよく自覚しています。突き詰めて考えると、自分自身の矛盾に大きくぶつかるのです。
 
 ロックをビジネスとして考えなければならないときが来たのでしょうか。最近、ことわざが自分に当てはまるような気がしてならないのです。早くジレンマの回答が得られるように祈ってください。落ち着きと、ずるさの共存にならないようにも。
 
 メシ、この野郎、てめぇ、でも、本当に心から愛しています。
 
 1974年10月19日 ロンドンにて 裕也』
今まで想像すらしなかった、勝手だけれど、父から母への感謝と親密な思いが詰まった手紙に、私はしばし絶句してしまいました。

 普段は手に負えない父の、混沌と、苦悩と、純粋さが妙に腑に落ち、母が誰にも見せることなく、大切に自分の本棚にしまってあったことに納得してしまいました。

 そして、長年、心の何処かで許しがたかった父と母のあり方へのわだかまりがすーっと溶けていくのを感じたのです。

 こんな単純なことで、長年かけて形成されたわだかまりが溶け出すはずがないと自分に呆れつつも、母が時折、自虐的に笑って言いました。

 私が他所から内田家に嫁いで、本木さんにも内田家をついでもらって、みんなで一生懸命家を支えているけど、肝心の内田さんがいないのよねと。

 でも、私が唯一親孝行できたとすれば、本木さんと結婚したことかもしれません。

 時には本気で母の悪いところをダメ出しし、意を決して、暴れる父をなぐってくれ、そして、私以上に両親を面白がり、大切にしてくれました。

 何でもあけすけな母とは対照的に、少し体裁のすぎる家長不在だった内田家に、静かにずしりと存在してくれる光景は未だにシュール過ぎて、少し感動的ですらあります。

 けれども、絶妙なバランスが欠けてしまった今、新たな内田家の均衡を模索するときが来てしまいました。

 怖気づいている私はいつか言われた母の言葉を必死で記憶から手繰り寄せます。

 『おごらず、人と比べず、面白がって、平気に生きればいい』

 まだたくさんすべきことがありますが、ひとまず焦らず家族それぞれの日々を大切に歩めたらと願っております。

 生前母は、密葬でお願いと、私に言っておりましたが、結果的に光林寺でこのように親しかった皆さんとお別れができたこと、またそれに際し、たくさんの方々のご協力をいただく中で、皆さまと母との唯一無二が交流が垣間見えたことは残されたものとして、大きな心の支えになります。

 皆さま、お一人お一人からの生前の厚情に深く感謝しつつ、どうぞ、故人同様、お付き合いいただき、ご指導いただけますことをお願い申し上げます。

 本日は誠にありがとうございました。

 

ご冥福をお祈りいたします。